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合唱団まい 第23回演奏会

合唱団まい

― であう ―

コロナ禍は合唱団まいの活動にも大きな影響を及ぼし、私たちは、どのように歌い続けるかを模索する日々が続きました。そのような中、今回初の試みとして、第23回演奏会のためにともに歌う仲間を募ることにしました。

やらまいか。

私たちのこの小さな呼びかけに応えてくださる方がいるのだろうか。とても不安でしたが、有り難いことに、各地より、心ある素晴らしい歌い手が集まりました。

であうことにより、新しい世界が広がる。
新しい何かが生まれる。

今年結成30年を迎える合唱団まいが、創団当初から最も大切にし、向き合い続けてきた「室内アンサンブル」を、新たに迎えたかけがえのない仲間と力強い楽曲とともに、ステージで花開かせます。

※やらまいか… 「やりませんか」の意。合唱団まい団名の由来にもなっている。

2022年10月23日 松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール)にて開催。
音楽監督 雨森文也
ピアノ 平林知子
4th stage指揮 奥原直愛(合唱団まい団員)

1st stage
ピツェッティ Ildebrando Pizzetti (1880-1968)
レクイエム

 作曲家イルデブランド・ピツェッテイは、イタリア国内の主要な音楽院の院長を歴任し、20世紀イタリア音楽界で大変尊敬を集めた音楽家である。1897年パルマ音楽院に進学したピツェッテイは、ジョヴァンニ・テバルディーニの薫陶を受ける。多感な時期に師の影響により芽生えた中世ルネサンス音楽と音楽理論への関心はピツェッテイの生涯に渡り続き、1922 年から23年にかけ作曲され、彼の妻の死に捧げられた「レクイエム」にもよく示された。
 「レクイエム」はグレゴリア聖歌の朗誦に始まり教会旋法と洗練された和声が融合した作品で、完全5度と持続音が随所に用いられ、厳粛で硬質な響きが生み出される。印象的なポリフォニーとフーガを持つRequiemに続く Dies iraeでは粛々と進むグレゴリオ聖歌に中世の母音唱法シネ・リッテラを思わせる印象的なオブリガードが重なる。一方で8声部に分かれる後半のドラマチックな展開は、神の裁きを前に戦慄する人間の心情がそのまま吐露されるようだ。続くSanctusは16世紀、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院を中心に隆盛を極めたイタリアルネサンスの複合唱様式が回顧され、3群の四部合唱がホモフォニーで歌い交わす壮麗な楽曲となっている。安らぎに満ちたAgnus Dei、切なる祈りが劇的な音楽で表現されるLibera me、以上の五曲で構成されるこの作品は「20世紀に蘇ったルネサンスの響き」とも例えられるピツェッテイ合唱作品の傑作だ。大合唱で演奏される機会が多い作品だが、本来は12名のソリストを想定して書かれており、本日は19名の歌い手により初演の趣を感じさせる演奏を試みる。合唱団まい初期のレパートリーは長らくルネサンス・バロックの声楽作品が中心であった。本日の演奏は、黎明期からまいを支え続け、その響きを作り上げてくれた、今は亡き、二人の素晴らしい歌い手に捧げたい。

参考文献
西原稔『神と向かい合った作曲家たち ミサ曲とレクイエムの近代史 1745-1945』(2022、音楽之友社)
井上太郎「レクィエムの歴史」(1999、河出文庫)



2nd stage
重唱・アンサンブルの愉しみ

 「アンサンブル」の語源はフランス語(ensemble)で「一緒に・同時に」という意味である。各メンバーが同じ空間と時間を共有し、「一緒に」奏でることで、音が重なり合い、呼応し合い、生まれる音楽。私たちは、少人数アンサンブルの魅力に憑りつかれ、創団以来、声楽アンサンブルの原点ともいえるルネサンス・バロック期の作品に 継続的に取り組んできた。更に、平林知子氏を常任ピアニストに迎えて以降、今日まで約 10 年に渡り、毎年団内で声楽のソロ発表会を開催し、ピアノと歌い手の間のアンサンブルという観点でも磨きをかけてきた。
 本ステージでは、まず 3 組の歌い手とピアノによる重唱(各声部を、それぞれ一人ずつが担当する歌唱形式)により、平田あゆみ・シューマン・ブラームスの作品をお届けする。そしてステージの締めくくりに、モンテヴェルディのマドリガーレ作品より2曲を、本日出演のメンバー全員のアンサンブルにて演奏する。

1.平田あゆみ (1960- )
「こどものうた」より わたりどり・鳩とかもめ
 「わたりどり」「鳩とかもめ」の二曲は、2001年から行われていた平田あゆみ氏の声楽作品を集めたクラシックの枠にとらわれない実験的コンサート「うたう劇場」にて発表された曲集「こどものうた」に収められている。「わたりどり」では鳥、わたし、世界と膨らむスケールが 4 声の音の広がりをもって表現され、「鳩とかもめ」では、繰り返される語りやアリア的な旋律が、答えの見えない痛みをより印象付けている。和声や言葉の緩急などが緻密に曲へ織り込まれ、リアリティのある感情、温度や色なども聴く人々に想起させる表現となっている。

2.R.シューマン Robert Schumann (1810-1856)
確かに太陽は輝く So wahr die Sonne scheinet Op.101-8
 シューマンは 1849 年に3つの歌曲集を作曲した。エマニュエル・ガイベルの詩による Spanisches Liederspiel Op.74 (スペインの歌遊び)と Spanische Liebeslieder Op.138(スペインの愛の歌)、そしてシューマンお気に入りの詩人フリードリッヒ・リュッケルトの詩による Minnespiel Op.101(恋のたわむれ)である。それらはソロ、デュエット、カルテットを組み合わせた多彩な曲が散りばめられ、シューマンの円熟の作曲技法と精緻な筆致が魅力的である。「確かに太陽は輝く」は Minnespiel Op.101 の終曲をかざるカルテットである。

3.J.ブラームス Johannes Brahms (1833-1897)
憧れ Sehnsucht Op.112-1
 ブラームスはドイツロマン派を代表する作曲家であり、 300 以上の声楽作品を残した。《愛の歌》作品 52、《ジプシーの歌》作品 103 など重唱曲にも名曲が多い。今回演奏する《憧れ》は、晩年に出版された曲集《6 つの四重唱曲》作品 112(1891 年出版)の第一曲であり、クーグラーの諦観的な内容の詩に作曲したもの。記憶の膜を縫うかのような半音進行と和声の色彩、そしてドイツ語の陰影が際立って印象的な作品である。

4.C.モンテヴェルディ Claudio MONTEVERDI(1567-1643)
マドリガーレ集第 4 巻より
星に向かって彼は打ち明けた Sfogava con le stelle
私は若い娘 Io mi son giovinetta
 北イタリア、クレモナで生まれ、1590 年より 22 年にわたりマントヴァの宮廷音楽家として活躍したモンテヴェルディはイタリアを代表する音楽家の一人だ。伝統的なマドリガーレにおいて頂点を極め、不協和音や半音階書法を用いて言葉と悲痛な心情を大胆に表現する「第2の手法」(従来の手法を第1の手法と呼んだ)を提唱し、マドリガーレ集 第 4 巻で伝統的なルネサンス様式と「第2の手法」とを見事に融合させた。その後、彼はその劇的な表現を発展させ、従来のマドリガーレとは全く異なる、通奏低音の伴奏による独唱や重唱という形式のバロックのマドリガーレに傾倒していくことになり、後世のバロック音楽やオペラの発展に大きな影響を与えている。

 私たちは、モンテヴェルディのマドリガーレ作品に魅せられ、20 年以上に渡り幾度となく歌い続けてきた。本日は、出演者全員のアンサンブルにて、マドリガーレ集第 4 巻より「星に向かって彼は打ち明けた」と「私は若い娘」の二曲をお送りする。



3rd stage
混声合唱ためのメドレー「越境するアンセム -日本語に着替えた欧州唱歌-」
信長貴富 編曲

 2020 年東京オリンピックの開催に向け、世界中の国歌を全て原語で歌いレコーディングする「アンセム・プロジェクト」のサイドストーリー企画として、作曲家信長貴富氏により、地域ごとの愛唱歌を集めたメドレー、『七つのアンセム・メドレー ~うたの世界旅行~』が制作された。本日演奏する『越境するアンセム』は、その第 6 番目、「ヨーロッパ大陸Ⅱメドレー」にあたる。
 アンセムとは、辞書には「特定の集団のシンボルとしての賛歌」とあり、賛美歌や世界各国の国歌、第二の国歌のように各国で親しまれている愛唱歌も含まれる。明治時代以降、様々な理由で海を越えて日本にたどり着き、日本語の歌詞が付けられた旋律がある。作曲家信長貴富氏は、それらを繋ぎ一つの大きなメドレーを編んだ。舞台は日本。そして主役となる旋律の故郷はヨーロッパにある。
 日本の西洋音楽教育は、日本が一つの「国家」として初めて「世界」との対峙を迫られた明治時代に、明治新政府の近代化政策の一つとして始まった。欧米列強の侵略を退け、独立国家として対等に渡り合うために欧米の文化レベルに何としても追いつきたかった明治新政府の必死の試みの一つだったともいえる。教材となったのは欧米の民謡や賛美歌に日本語の歌詞を当てはめた「翻訳唱歌」。そこには、国民全員が歌える「唱歌」をつくることで、全国の民の中に「日本人」という国民意識を芽生えさせたい明治新政府の思惑もあった。多くの日本人が初めて接した西洋音楽は、このような歴史的背景の中で日本に渡った西洋のアンセムに日本語の歌詞を着せられた、作り出されたアンセムだったともいえる。
 本作品で選ばれた 9つの唱歌のうち冒頭 4 曲と終曲「埴生の宿」が明治時代に翻訳唱歌として日本に紹介され、学童たちに歌われたものだ。時代が帝国主義の台頭と侵略戦争へと突き進むにつれ、翻訳唱歌は軍歌へと姿を変え、戦意高揚に利用されてゆく。第一曲目「見わたせば」は軍歌「進撃」となり、教育の場では遊戯会で歌われ元の歌詞は忘れ去られていった。メドレーの中で変わりゆく「唱歌」の姿に、時代の流れに押し流されるように戦争に駆り立てられる人間の愚かさ、悲しみが浮かび上がる。
 一方で、このメドレーに接する私たちは、「歌は常に歌う人とともにある」ことに気づかされる。
 翻訳唱歌の「見わたせば」を現代の私たちが歌うとき、自らが受け継いだ日本の風土・文化への矜恃を胸に、日本の明るい未来を子どもたちに託すべく、耳慣れない西洋音階や原曲と格闘し、翻訳・作詞を試みた文部省音楽取調掛の若者たちの情熱を感じ取る。同時にまた、初めて出会う西洋の音階・旋律に驚き、歌詞にある日本の春の都の美しさを思い浮かべながら、見よう見まねで習い歌う当時の子どもたちの姿が目に浮かぶ。
 メドレー5 曲目に登場する「種山ヶ原」は、ドヴォルザークの交響曲 9 番『新世界より』二楽章冒頭の有名な旋律に宮沢賢治が自作の詞を付したものだ。地方都市盛岡にあって明治を生きた賢治は、薄給を投げうちレコードを買い集めては鑑賞会を開き、自ら楽団を作るほど西洋音楽にのめり込んでいた。教え子らとともに、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させるという理想に燃えた賢治には、「新世界」二楽章冒頭に、額に汗し耕す大地が暁光に満たされてゆく情景を見いだしたのだろうか。一人の日本の若者が西洋音楽の美しさに触れた純粋な感動から誕生した日本語で歌われる西洋音楽がそこにはある。
 国も時代も立場も超えて広まり、世界の人々に愛された歌。
 全てを失ってもなお、くちびるからこぼれる歌。
 お仕着せのアンセムだったはずの「翻訳唱歌」の中にも、「埴生の宿」のように、原曲が異国の歌であったことを忘れさせるほどに日本人の心の深い部分と繋がった「アンセム」は確かに存在した。
 信長氏の編んだメドレーとともに時をめぐると、その旅の終わりには、人々の想いとともに海を渡り日本にたどり着いた美しい旋律が様々な人へと手渡され、いつしか私たちのほんとうのアンセムとなるその瞬間に立ち会う思いがする。
 故郷とは何か。国とは。私たちがこの作品を選曲したのはロシアによるウクライナ侵攻が始まる前であった。戦争の悲しさ、虚しさを強く感じさせるこの作品が描き出す過去の現実と同じ情景が、今、この世界に引き起こされてしまったことに衝撃と悲しみを感じる。今だからこそ、大切に歌い、問いかけたい。

1.フランス「見わたせば」
 原曲は、フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーにより作詞・作曲(1752年)されたのち、改編を経て日本には賛美歌「グリーンウィル」として輸入された。現代では、童謡「むすんでひらいて」として親しまれている。
 文部省音楽取調掛の柴田清煕と稲垣千頴が古今和歌集の和歌をもとに楽譜に即して作詞。1881年、日本初の五線譜による音楽教科書『小學唱歌集 初編』の第13曲として掲載された。

2.ドイツ「霞か雲か」
 文部省音楽取調掛による教材開発の中で日本語詞が創作され、1883年刊行『小學唱歌集 第二編』に掲載された。原曲「Alle Vögel sind schon da(小鳥たちがやって来た)」は春の喜びを歌ったドイツの童謡。唱歌、原曲ともに春の季節を歌っているが、原曲歌詞に登場するのは鳥のみであるのに対し、翻訳 唱歌には「霞」「花」という春の季語が追加され、「鶯」という具体的な春の鳥を登場させることで、日本的な春の情景を描き出すことに成功している。作詞者の加部巌夫は御歌所に勤めた宮中歌人。1881年から音楽取調掛の歌詞選定に関わった。

3.ドイツ「故郷を離るる歌」
 1913年刊行の『新作唱歌 第五集』に掲載。この頃には法人作曲家によるオリジナルの日本語唱歌が次々と発表されていたが、翻訳唱歌の供給も続いていた。原曲とされるドイツ語の歌『Der letzte Abend(最後の夜)』の出自は不明で、ドイツ中南部フランケン地方の民謡を起源とする説もある。作詞は『早春賦』で知られる日本の作詞家、文学者、教育者であった吉丸一昌。

4.スコットランド(イギリス)「故郷の空」
 原曲はスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズが付けた歌詞「Coming’Thro’the Rye(ライ麦畑で出会うとき)」。原曲は恋の戯れ歌だが翻訳はされず、日本語詞はふるさとへの思慕を歌っている。1888 年刊行『明治唱歌 第一集』に掲載。作詞者の大和田建樹は詩人、作詞家、国文学者。若くして四書五経に通じた秀才で、二十歳前後の3年間は広島大学校で学び英学も修めている。1888年から民間製唱歌集の先駆けとなる『明治唱歌』全6巻を編纂した。『鉄道唱歌』『青葉の笛』の作詞者としても知られる。

5.チェコ「種山ヶ原(家路)」(「新世界より」第 2 楽章)
 原曲はドヴォルザーク作曲の交響曲第 9 番《新世界より》の二楽章。有名な日本語詞には堀内敬三の「遠き山に日は落ちて」などが存在するが、この旋律に日本語の歌詞を付けたのは宮沢賢治が初めてである。種山ヶ原は岩手県奥州市の高原地帯で、『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などの舞台にもなった。

6.北アイルランド(イギリス)「ロンドンデリーの歌」
 北アイルランドとはアイルランド島北東部のイギリス領域。「ロンドンデリー」は北アイルランドで2番目に大きい都市の名前である。この旋律は彼の地に伝わる民謡でイギリス領北アイルランドでは事実上国歌としての扱いを受け、アイルランド移民の間でも人気が高い。100以上の様々な歌詞がつけられているが、 1913 年にダニーボーイが発表され世界中で親しまれるようになった。いくつかの日本語詞があるが、日本では家を離れる我が子に贈る言葉として書かれた津川主一のものが有名。津川主一は元牧師でフォスターを日本に紹介した人物としても知られる。日本の合唱音楽普及に大きな足跡を残した。

7.ロシア「ともしび」
 ロシアの詩人ミハイル・イサコフスキ-が第二次世界大戦の最中に発表した詩。戦争によって引き裂かれた愛の嘆きと、故郷への思慕が歌われている。当時ロシアの至る所で見られた別れの情景を歌う歌詞はロシアの大衆の心を捉え、自然発生的に多くのメロディが付けられた。日本では、戦後 1950 年代に流行した「うたごえ運動」の中で広く歌われるようになる。森おくじは、シベリア抑留時代に覚えたロシア民謡を日本へ持ち帰り、自身で日本語に訳した。ロシアの歌や踊りを日本に広めたいという思いから「音楽舞踊団カチューシャ」を結成。「一週間」、「ともしび」、「トロイカ」など発表された多くのロシア民謡は1950年代に流行した「うたごえ運動」などを通じて全国的に広まり、今でも多くの日本人に愛されている。

8.フランス「進撃(「見わたせば」の異形)」
 唱歌を軍歌に転用した事例である。1895年刊行の軍歌集『大東軍歌』に掲載された。帝国主義の台頭を背景に時代は音楽教育を巻き込んで日清・日露戦争へと突き進んでゆく。子どもたちには遊戯で身体活動を伴って歌われた。作詞者の鳥居忱は滝廉太郎が作曲した「箱根八里」の作詞者として知られる。大学南校、東京外国語学校で仏語を修めた後、来日したメーソンに音楽を学ぶ。その後文部省音楽取調掛として業務に携わった。

9.イングランド(イギリス)「埴生の宿」
 1823年にイングランドのビショップが作曲、日本語訳詞は里見義によって作られ、明治時 代 1889年刊行の『中等唱歌集』に掲載された。原曲「Home,Sweet Home(懐かしき我が家)」の作詞者はアメリカの J.H.ペイン。1823 年初演のオペラ「ミラノの乙女」の劇中歌で歌われた。日本語詞の作者である里見義は小学唱歌集の「庭の千草」「才女(原曲アニーローリー)」 などの訳詞も手がけている。世界中で愛される「懐かしき我が家」の旋律は、日本語詞に、春の花、鳥、秋の月に虫の音という日本に脈々と受け継がれてきた季語が添えられることで、遠い異国の「誰かの我が家」ではなく、日本の風景の中にある「私の我が家」にまっすぐに繋がってゆく。

主な参考文献
信長貴富編曲『越境するアンセム』(全音楽譜出版社)解説
佐藤慶治『翻訳唱歌と国民形成 明治時代の小学校音楽教科書の研究』(九州大学出版会,2019)
奥中康人『国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代』(春秋社,2008)
モーストリークラシック vol.267「シューベルトとドイツリート」P71「日本人が好んだロシア民謡」
音楽取調掛編『小学唱歌集. 初編-第二編』(1881-1884)国立国会図書館デジタルコレクションより
花巻市ホームページ「賢治と農民」https://www.city.hanamaki.iwate.jp/miyazawakenji/about_kenji/1003948.html



4th stage
信長貴富(1971- )
混声合唱とピアノのための 「くちびるに歌を」

 100年をこえる時間をかけて、言葉もまた、海を渡ってきた。
 「くちびるに歌を」は 2007 年の初演。もともとは男声合唱とピアノのために書き下ろされ、そちらは 2005 年に初演されている。テキストはヘッセ、アレント、リルケ、フライシュレンと、いずれも19世紀末から20世紀を生きた詩人のもの。彼らの作品は、ヨーロッパはもちろんのこと、遠く離れた日本でも、多くの文筆家の名訳とともに親しまれている。
 歌詞にはドイツ語と日本語の両方が用いられている。楽譜の巻頭、信長氏は「ドイツ語によってロマンティックな音像を導き出し、母国語によって懐深く情感を呼び覚ますというのがねらいです」と語っておられる。男声版の巻頭では「ロマンティックな音楽を描くこと、これは思いのほか勇気のいることなのです」「それでもなおロマン的な表現を望んだのは、現代という乾いた時代を潤す歌を書きたいという願いがあったから」とも述べられている。
 曲集の 4曲は、それぞれに独立したストーリーを持つが、同時に信長氏の音楽は、テキスト同士の緩やかなつながりを、より大きな物語へと昇華している。若者が海の向こうへ想いを馳せ、旅立ち、出会い、別れ、時代の奔流に揉まれ、不安や孤独に苛まれながらも、最後まで憧れを持ち続ける、そんなストーリーにさえ聴こえるだろう。歌う人、聴く人の次の100年への旅立ちを祝福するような、明るく肯定的な願いを感じずにはいられない。

1.白い雲 -Weiße Wolken
 ヘッセの生まれた家系は、ひろく東洋に心を開いた人々だった。彼の父はロシア生まれのスイスの宣教師で、母もインド生まれのドイツ系スイス人であった。また、彼の従弟ウィルヘルム・グンデルトは日本に 30 年近く滞在した日本学者である。グンデルトとヘッセは歳も近く、身近な存在だったようだ。
 第一次大戦下、ヘッセは敵国の文化を否定する風潮に反発し、ドイツ本国から糾弾される。だが、ヘッセは東洋の思想を追い続け、1922 年には釈迦の出家前の名を頂いた小説『シッダールタ』を著している。
 Weiße Wolken は、ヘッセ 20 代前半ごろの作品である。後の大戦でヘッセがたどる道を思うとき、あるいは今日の世界を見わたすとき、「ふるさとを離れたさすらい人」は冷たく孤独な言葉に思える。だが過去も今も、歌は紡がれ、次の世に脈々と想いを伝える。忘れ去られ、形を変え、海を越え、世界をめぐる。「太陽」「海」「風」といった若いヘッセの言葉は、広がる未来への眺望だ。
 歌詞はドイツ語の原詩から始まり、続いて日本語と交わっていく。ピアノの調べは流れゆく雲そのものか、 それを運ぶ海渡る風か。めくるめく和声の中で二つのことばは呼応し、若き日のヘッセと、今この歌を歌う私 たちを結びつける。

2.わすれなぐさ – Vergißmeinnicht
 わすれなぐさの名の由来は、中世ドイツの悲恋伝説とされる———騎士ルドルフは恋人ベルタのために、ドナウ川の岸に咲く一輪の花を採ってこようとする。だが、ルドルフは岸から落ち、そのまま流されて命を落としてしまう。今際の際に花をベルタに投げ渡し、“Vergiß-mein-nicht!”(私を忘れないで)と叫んだ———。
 1885 年、オーストリアの詩人アレントはほか 23 名の若い詩人たちと共に、詞華集『現代詩人気質』でこの詩を著している。上田敏による訳詩は、すべて平仮名による“やまとことば”の五七調で書かれており、私たちの胸の内に静かな波を立てて流れてくる。中世の物語が時をこえ、さらに四行詩のまま国を越えて、私たちの母語で瑞々しく語りかけてくれる。
 本曲は 4 曲中、唯一日本語で語りだされる。信長氏は卓越した色彩感を持つ作曲家であり、わすれなぐさの花の色が“やまとことば”で語られるとき、またはドイツ語で語られるとき、それぞれに異なる色彩を与えている。「みづあさぎ」は儚い旋律で歌われ、“みず”に想い人を奪われた少女の悲しみを淡く覗かせる。“Blau” は川面の奥底か、あるいは空を仰ぐような複雑で鮮やかな青の階調をみせる。楽譜上では二人を別つように象徴的なC音が持続して書かれており、川辺に可憐に咲く花のように響き続ける。

3.秋 -Herbst
 リルケは彫刻に関心をよせた作家であり、彫刻家オーギュスト・ロダンを敬愛していたことで知られる。
 1900年、リルケは後に妻となる女性彫刻家クララをはじめ、多くの若い芸術家たちと交流を重ねる。彫刻の制作手法に関心を持った彼は、詩作にその手法を取り入れようと試みた。それまでの単なる抒情的な作風を離れ、事物の「形」を観察し、言葉でそのありかたを造形する手法を模索し始めたのである。その後リルケは、時の彫刻家ロダンの論評執筆の仕事を請け負い、1902 年 8月、ロダンのいるパリに居を移す。翌年には『ロダン論』の執筆を完了するが、彼のロダンへの関心はそれに留まらず、以後もロダンのアトリエに出入りし、一時は私設秘書も務めた。ロダンとその彫刻手法に熱意をもって向き合い、リルケ自身の詩作に新たな手法を見出そうとしていた様子が伺える。
 リルケの作風は、パリ生活の前後が抒情詩から形象詩への過渡期といえる。Herbst はパリ移住後の最初の秋に書かれた詩である。街路樹からの落葉だろうか、リルケは葉“Die Blätter”から手“Hand”を見出す。その落下はすべての形あるものに訪れ、我々も、我々が立っている大地でさえも、孤独な滅びがやってくることを突き付ける。では、それを両手で優しく受け止めてくれる「ひとり」とは何者なのか。
 ロダンによって事物は深く観察され、やがて確固たる輪郭をもって造形される、とリルケはみた。形ある“ようにみえる”観察対象は、彫刻として造形されることで、その輪郭を通して形而上の存在へと昇華される。こうした作品をリルケは「芸術事物」“Kunst-Ding”と呼んだ。生み出された芸術事物は、形而下の対象 よりも強固に持続し、永遠であるとしたのだ。ロダン、あるいはその芸術の永遠性こそ、リルケが探し求めた「ひとり」の意味するところなのかもしれない。
 信長氏は、リルケの心の孤独と狂気を、そして、やがて芸術の中に救いを見出す様を、音楽で描き出している。音の彫刻とでもいうべき意欲的な作品である。

4.くちびるに歌を -Hab’ ein Lied auf den Lippen
 フライシュレンによる原詩“Hab’ Sonne im Herzen”は、山本有三の訳詞『心に太陽を持て』としてなじみ深い。これを収めた山本著の児童書『心に太陽を持て』の存在もあり、日本で最も親しまれているドイツ語文学作品のひとつといえるだろう。ドイツにおいても、この原詩は家庭にタペストリーとして飾られたり、やさしいメロディーにのせて愛唱されたりと、ごく身近に親しまれるテキストであるようだ。
 信長氏は原詩の3連の内、「くちびるに歌を持て」で始まる第2連をそのままドイツ語テキストとして曲に織り込んでいる。冒頭、短調の美しい響きの中でドイツ語が紡がれていく。日本語テキストは信長氏自身の訳詞による。3 連の中から自由に再構成されることで「心に太陽を持て」「ひとのためにも言葉を持て」といった投げかけは勢いを増し、力強いメッセージとなる。曲の随所には、1 曲目とのつながりを思わせるモチーフが用いられている。この曲の旋律が遠い調べとなって誰かの心に届くことを願うような、壮大でありながらささやかな祈りが感じられる。

引用文献
『混声合唱とピアノのための くちびるに歌を』信長貴富作曲, P2(音楽之友社, 2008) 『男声合唱とピアノのための くちびるに歌を』信長貴富作曲, P2(音楽之友社, 2007)

参考文献
『ヘッセ詩集』高橋健二 訳(新潮文庫, 1950)
『ヘッセとグンデルト』渡辺好明 HP
『リルケの事物詩にみるロダン芸術の影響』舩津景子(京都産業大学論集 HUMANITIES SERIES No.52, 2019)

Program

Total
2:07:24

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合唱団まい 第23回演奏会

合唱団まい

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であうことにより、新しい世界が広がる。
新しい何かが生まれる。

今年結成30年を迎える合唱団まいが、創団当初から最も大切にし、向き合い続けてきた「室内アンサンブル」を、新たに迎えたかけがえのない仲間と力強い楽曲とともに、ステージで花開かせます。

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